周辺には民家が立ち並び、市井の賑わいの中、和気町で「和気の圓明さん」の愛称で親しまれる「圓明寺」。
天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅願を受けた行基が、自ら阿弥陀如来を彫って安置し、開基しました。
創建当時は海岸山・圓明密寺を名乗っていました。
その後、巡錫した弘法大師が堂宇を整えたといわれ、当時、寺は和気西山の海岸に位置していましたが、鎌倉時代には度重なる兵火によって焼失してしまう。この地に引っ越してきたのは元和元年(1615)。この地の豪族・須賀重久が伽藍を再興した。
長い石段の先にある仁王門(八脚門)をくぐって入った境内には、楼門、大師堂、本堂、観音堂が整然と並んでいる。十一面観音像が安置された観音堂は、断絶した国主・河野家の遺臣たちの追善供養のために建立され、関ヶ原の戦いで没した戦士たちの霊を慰めている。
本堂の中には長さ4mはあろうかという、巨大な龍の彫り物が施されている。今にも動きそうな躍動感に満ちた龍は、名工・左甚五郎の作ではないかといわれている。
大師堂の横には、なぜか石に彫られたマリア像があり、県下で一基のキリシタン灯籠。キリシタン禁制の寛永年間(1624〜1644)に建立されたもので、山門をくぐってすぐの左手にあり、一見したところはわかりにくいが、その形状は十字架のようになっている。キリシタン禁制の江戸時代、寺ではかくれ信者の礼拝を黙認していたと思われる。一宗派にこだわらない、懐の深さを感じます。
圓明寺には日本最古の銅製の納め札も残されている。「四国仲遍路同行二人 今月今日平人家次」と書かれており、慶安3年(1650)のものといわれている。発見者はアメリカ人のシカゴ大学教授・スタール博士。
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